カルト信仰と芸術の境界
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ライヴで一心不乱に盛り上がるファンの姿を、世間では時として「宗教みたいだ」と揶揄することがある。
しかし、「カルト」と「カルチャー」は、どちらもラテン語の colere に遡る、同じ語源を持つ言葉だ。信仰や崇拝、文化や芸術。一見すると異なるものに思える言葉が、その根底ではつながっている。
そう考えると、ライヴで「カルト」が披露されたときの高揚感や、Reolを神のように仰ぎたくなる気持ちも、何ら不思議なことではないように思えてくる。
2018年の全国ツアー『MADE IN FACTION』で披露された「カルト」は、まさにそんな感覚を抱かせるステージだった。
ろうそくの炎から始まる儀式
「私が冥土に誘いたいと思います」。
そう告げたReolはステージ中央に座り、マッチでろうそくに火を灯す。
そして歌い始めてからもしばらく、ただその小さな炎を見つめながら歌い続ける。
どこか気怠げで、静かな時間。まるで何かの儀式が始まったかのような、不気味な空気が漂っている。
やがて感情があらわになり、「お前を赦してやる術が無い」と凄むように歌う。その声からは、誰かを赦すことのできない怒りや苦しさが伝わってくる。
そしてサビでは、それまでの静けさを切り裂くようなハイトーンが突如響き渡る。
気怠く沈んでいた空気が一変し、むき出しの感情が一気に解き放たれる。その鋭くも美しい歌声に、思わず息を呑む。
スクリーンには、じごくを思わせる映像が映し出されている。
ろうそくの火を見つめる視線、凄むような歌声、サビで鋭く突き抜けるハイトーン、そして禍々しい映像。そのどれもが恐ろしいほどに美しい。
歌唱、所作、映像演出。そのすべてが高い水準で結びつき、総合芸術として至高の域に達していると感じる。
教えを説く表の顔、救いを求める裏の顔
「カルト」は2018年3月14日発売のミニアルバム『虚構集』に収録された曲で、作詞・作曲をReol、編曲をGigaとReolが担当した。
Reolは当時のインタビューで、無宗教であっても、人は家族や恋人など、何かを信じ、すがって生きていると語っている。
また、Real Soundのインタビューでは、宗教を依存の突き詰めた形として捉えているとも説明していた。
この曲で描かれるのは、そんな人間の信仰と執着だ。
冒頭では、まるで教祖のように信仰を命じ、相手へ救いや罰を与えようとする。
ところが、その強い言葉の裏側には、夜泣きがやまず、明け方の四時に浴室で吐いている、一人の人間の姿がある。
浴室という極めて私的な空間で苦しむ姿は、信仰を説く者の威厳とはあまりにも対照的だ。
しかも、この曲では「八卦よいで見ろ」という言葉と、「観自在菩薩ニハ非ズ」から始まる経文めいた言葉が、表と裏で重なり合うように歌われている。
八卦は易に用いられ、吉凶を占うことにも関わる言葉だ。そのあとに具体的な時刻として「明け方の四時」が現れるのも興味深い。
相撲の掛け声を思わせる言葉遊びでありながら、占いや方位、時刻といった連想まで広がっていく。
そして、繰り返される「見ろ」という命令。
教えを説く者の姿だけでなく、その裏側まで見てみろ。そこにある醜さや弱さまで覗く覚悟を持て。
そんな挑発にも聞こえてくる。
表では人々に信仰を説きながら、裏では世を呪い、自らも救われたいと願っている。
この二面性を意識すると、二つの歌声が重なる構造そのものが、教祖のような存在と、その仮面の裏で苦しむ一人の人間を表しているように思えてくる。
そして、ここで重要になるのが「観自在菩薩ニハ非ズ」という言葉だ。
観自在菩薩は、般若心経の冒頭に登場する存在。Reolはこの言葉について、自分は神様ではないから、すべてを赦すことはできないという意味を込めたと説明している。
誰かを救う存在のように振る舞いながら、自分自身も赦せない感情に苦しめられている。
教えを説く側でありながら、同時に救いを求める側でもある。
この矛盾こそ、「カルト」の根底にあるものなのかもしれない。
裏側の告白を、表で歌う
そして、『MADE IN FACTION』の「カルト」がこれほど印象深い理由がもう一つある。
それは、「観自在菩薩ニハ非ズ」という言葉の聴こえ方だ。
音源や2021年の『音沙汰』では、この部分はノイズのように加工され、背後に埋もれるように聴こえる。
ところが『MADE IN FACTION』では、Reol自身がこの言葉を前面に出して歌っている。
普段は裏側に隠されている、すべてを赦せる存在ではないという告白が、あのステージでは表へと現れるのだ。
ろうそくの炎を見つめ、儀式を執り行うかのように歌うReol。
その姿は神のように仰ぎたくなるほど神聖で、美しい。
けれど、その本人が、自分は菩薩ではないと歌っている。
何でも赦してくれる存在ではない。怒りも執着も抱え、誰かを赦すことができずに苦しんでいる。
そんな人間としての姿を、あのライヴでは隠そうとしない。
むしろ、ろうそくの炎を見つめる静けさから、感情をむき出しにした歌声へと変化していくことで、その裏側を観客の前にさらけ出しているように見える。
神のように見える存在が、自ら神聖な仮面を外してしまう。
その矛盾が、たまらなく美しい。
苦しみの中で決別を歌う
そして、あの静けさを切り裂くようなハイトーンで歌われるサビにも、強い意味がある。
誰かを赦すこともできず、救いを求めて苦しんでいる。それでも、これまで抱えてきた羨望や恐れに別れを告げ、もう一度立ち上がろうとしている。
「さようなら」という言葉は、単なる別れではなく、過去の自分との決別にも聞こえてくる。
曲の終盤では、信じることで本当に報われるのかと問いかけながら、倒れて崩れても、もう一度築き直そうとする意志が示される。
ここで思い出すのが、同じ『虚構集』の冒頭に置かれた「エンド」だ。
「エンド」では、REOLとして活動してきた過去の自分を葬り、それまでの歩みを受け止めたうえで、新しいReolとして進んでいく覚悟が描かれていた。
「カルト」にも、その決別と再生の意志が通じているように思う。
だからこそ、サビで響き渡るあのハイトーンは、単なる感情の爆発には聞こえない。
赦せない苦しさを抱えたまま、それでもこれまでと決別し、立ち上がろうとする声なのだ。
その必死さを感じるからこそ、あの歌声にこれほどまでに心を揺さぶられるのかもしれない。
信仰と芸術の境界
『MADE IN FACTION』では、「平面鏡」に続いて「カルト」が披露された。
「平面鏡」では、他人の視線や人間関係に苦しみながら、それでも誰かに理解してほしいという願いが残されていた。
その直後に「カルト」が始まると、理解を求める気持ちが、さらに深い信仰や執着へと踏み込んでいくように感じられる。
わかってほしい。信じたい。それでも、赦すことはできない。
そんな人間の弱さや醜さ、怒りや執着が、歌唱や所作、映像演出によって至高の芸術へと昇華されている。
「平面鏡」のライヴに感じた、呪いの歌でありながらあまりにも美しいという感覚。
「カルト」では、その美しさがさらに生々しいものになっている。
そして、信仰や執着を歌うReolに心を奪われている自分自身もまた、何かを信じ、強く惹かれずにはいられない人間の一人なのだと思う。
神のように仰ぎたくなる存在が、自ら菩薩ではないと歌う。
それでも、いや、そんな人間としての弱さまでさらけ出しているからこそ、あれほど美しく感じられるのかもしれない。
小さなろうそくの炎から始まり、赦せない苦しさを露わにし、それでも立ち上がろうとする意志を歌い上げる。
そのすべてが至高の芸術として結実したステージを前に、ただひたすら心を奪われる。
信仰と芸術の境界が、あの瞬間だけは限りなく曖昧になる。
そんな美しさが、『MADE IN FACTION』の「カルト」にはある。



